この男と結婚したい、と直感で思ったことがある。
大学時代に出会った年上のその男を初めて見た時、この人と人生を共にしたいとまで思わせられたのだった。しかし当時その男には長く付き合っていた恋人がいたため、当時20歳の私はお行儀よく一旦は諦めた。
数年後、その男が「今、彼女いないんだよね」と目の前でぼそりと呟いた。
私はその瞬間に「神様は今だと言っている」と思い、その日から文字通り連日連夜、私と結婚してくれないかとその男に嘆願した。男は困ったように笑いながら、「まずはお付き合いからってのはどう?」と至極真っ当な提案をしてくれた。君への好意はあるし、と優しい言葉まで添えてくれた。
にも関わらず、20代前半の勢いが溢れた私は、そんな言葉では納得しなかった。
「お付き合いじゃだめ、結婚しましょう。籍を入れましょう。そうじゃないと、先輩は居なくなっちゃう気がするので」
ゴリ押しにダメ押し、あの手やこの手。ひたすらに説得してみると、男は根負けした。
「そこまで言ってくれるのに応えないのは、男としてダメだと思ったし、こんなに求愛されることは人生にもうない気がする。よし、その提案に乗ってみようか」
そうして私は、その男とすぐに勢いで入籍をした。
────そして2年前、私はその男と離婚をした。
もう少し踏みとどまれば離婚せずに済んだのかもしれないけれども、互いに責め立て合う日々は私たちをひどく疲弊させていた。限界の果ての決断だった。
しかし離婚後も、元夫とはスープの冷めない距離で暮らしながら、共に世界で一番可愛い我が子を育てている。同じ会社を共に経営し、元夫婦ながらに阿吽の呼吸で仕事を続けている。パパとママとしての関係は大変に良好で、元夫はいつも「本当に素晴らしい母親」として私を褒めてくれるし、私も彼のことを「こんなにいいパパはいない」とまで思う。
子供の運動会やダンス発表会などの用事に2人で出かければ、誰も私たちが“元”夫婦だとは思わない。実は離婚しているんですと伝えると、周囲のママ友は「そんなに仲良しなのに?」と目が点になることもしょっちゅうだ。
それはつまり、『結婚した夫婦』という関係性が私たちには“合っていなかった”ということなのだと思う。
私は元夫に、若い頃に恋をした。
惚れている間は、多少のことは最初は目を瞑ることができる。しかし結婚したり一緒に住む中で、実はここは相手があまり頼りにならないんだなと思うことも出てくるし、それってどうなのよと憤るような事件だって発生する。そうやって生活を共にすることで段々と、恋していることで見なかったことにしていた事柄が浮き彫りになり、いよいよ現実が突きつけられていく。夢はいつか、醒めるのだ。
相手のために毎日お弁当を作ることは苦ではないけれども、彼が毎日脱ぎ捨てたままにしている靴下には段々と苛立ちを覚えたのだった。
結婚するということはそういうことよ、そんなもんなのよ、と既婚者のあなたは言うかもしれない。ただ私は、彼のことをいつまでもかっこいい憧れの先輩でいて欲しいと思っていて、彼の見たくない側面に触れるたびにどうにもこうにも苛立っていた。
彼のすべてをまるっと愛してはいたが、それと同時に、彼にすべての私の期待した役割を担わせるのは酷なのだということも段々と理解していった。
結婚した夫婦というものは、大変多くの役割を担わされている。
私たちの場合は、雑談が止まらない仲のいい先輩後輩でありながら、男女としての性的な行為の独占権を持ち合い、生活を共にする同居者であり、子供が生まれた後は父親と母親としての責任が発生する。これらの役割すべてを、たったひとりの相手に対して期待せねばならないという状態は、私たちをとにかく疲弊させた。
だいたいね、無理ゲーだと思わない?
今月の電気代が高いなどと言い合いをして、生活費を一緒に考えたりしなければいけない相手に対して、次の瞬間は性的魅力を感じてまるで切り替えたようにセックスもしなければならない。そうした行為で子供が産まれたと思えば、次は父親としての期待を求められ、母親は産後の身体に振り回されながら、2人でしたこともない慣れない子育てを求められる。にも関わらず、2人目が欲しければ、赤ちゃんがいつ夜泣きするのかとハラハラしながら性行為をすることになる。
子供が散らかしたおもちゃに囲まれながら、隙間時間に疲弊した身体で慌ててするセックスに、どれだけの人間が義務感を感じずにいられるだろう。
そりゃ現代はセックスレスにもなりがちだし、夫婦なんてギスギスするだろうよ。
私たちはとにかく、疲弊している。たった1人の相手に夫婦として、恋人として、両親として、家庭の共同経営者として。いろいろな役割を求め合うのだからこんなの、疲れるに決まっている。
栄養バランスの五角形のグラフのように、ひとりの男に私はたくさんの栄養素を求めすぎていた。
夫婦として社会的なイベントには仲良く出席したいし、恋人としてのドキドキはいつまでも保って欲しいし、だけど生活を共にする相手としての小言は受け止めてほしいし、パパとして赤ちゃんのオムツ換えも沐浴も任せたい。
だけど、そんなのは不器用な彼にはなんとも酷な話だった。
そもそも彼からすれば、憧れのかっこいい先輩としての部分しか期待されていなかったはずなのに、不器用さがゆえに特化された話の面白さに惚れられたはずなのに、私のほうが勝手にあれもこれもと注文を続けたのだ。
彼はもともと、才能が一部に特化した、栄養グラフだと尖りまくった三角形のような、いびつな形のパラメータの男だった。
そうであることを知って結婚したはずなのに、私はいつの間にか無意識に、彼にパーフェクトな栄養素の五角形であれよ!と期待していた。そして、それが叶わないと勝手に苛立っていた。
そもそも、彼のいびつさに恋して力技で結婚まで持ち込んだのは、自分なのにね?
私だって、いびつな形なのに。彼はそのことに、なんのプレッシャーを私に与えてきたこともないのに。それが彼の優しさであり、期待をしないというおおらかな性格で、だからこそ神経質な私と続けてこれたというのに。
そのことに気がついたとき、私はまずは夫と妻という関係から降りることにした。離婚を決めた。
夫と妻という関係をなくした瞬間から、私は彼と喧嘩することが一気に減った。同居を解消し、近い距離でありながらも別居をすることで、心理的にも物理的にも距離を置くことができたことは、私たちの関係性を健全な方向へと導いたように思う。そして少しずつ、まるで昔のような、仲の良い先輩後輩の関係へと自然に戻ることができたように思う。
今は元夫のことを、人生で一番信頼している戦友であると思っている。
7年の結婚生活を振り返り、元夫に聞くと「結婚を後悔したことは一度もない」という。私も同意見だ。そこで互いに与え合ったものは、今も信頼関係として残り続けている。
今は、会社を一緒に支える相手として、子育てを共にする相棒として、減らした役割の中で相手と関係を続けている。
それは同時に、私は新しく恋人が出来ようとも、これらの役割を恋人には求めないということである。だってそれはもう、元夫が担っているのだから。
もしも栄養バランスが五角形の男がいるとするのなら、それは確かに国宝級だ。
五角形男が理想の旦那様としてこの世に実際にいるというのも、事実だ。
だけれど私自身が五角形を期待できない女だし、逆に相手に対しても五角形を期待していない。いびつさや不器用さに魅力を感じてしまうので、それぞれの役割を分散して担わせれば良いのではと今は思っている。
ひとりの相手に、さまざまな役割を担わせがちな現代の社会設計に、どうか皆様も振り回されませんように。期待せずに結婚するもよし、最初から分散して相手を分けるもよし。どうであれ、さまざまな役割を相手に押し付けず、自分も押し潰されませんように。
そのことだけを胸に留めておけば、きっと不幸になることは少しは、減らせるのかもしれないね。